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ドラゴンクラスの古セイルを使って

こんにちは、久しぶりに書いてみようと思います。

●JIB創立当初に始めた古セイルのバッグ

古セイルを使ったバッグを、最近また作ってみました。

というのも、僕が乗っているヨット、「ドラゴンクラス」のセイルを使って
セイリングクラブのディンギーの練習用にセイルをリメイクしたり、
同じドラゴン仲間の古いセイルを使って、特別なギフトにしたりと、
特にセイリングによって使い込まれたセイルクロスの味わいを生かすことが改めて楽しく、
魅力的だと感じているからです。

さて、「最近また」と書いた通り、古セイルを使ってバッグを作るというのは、
JIBが創立当初に既に始めていたことなのです。
でも、僕が古セイルをJIBバッグのメインの資材として採用し続けなかったのには、
理由があるのです。
まずは、その当時の話しです。

それは、僕がヨットに興味を抱いた10代の頃のこと。
僕は「ドラゴン」というヨットと出逢いました。
マリーナに上架されたドラゴンを見て、その船型の美しさに一目惚れでした。
1929年に設計されたこのヨットが、僕は今でも世界で一番エレガントなヨットだと思っています。

1978年、JIBを設立した当時は、
ディンギーやクルーザーの古セイルを使ってバッグを作っていました。
しかし、当時は今の時代と違い、ヨット人口もさらに少なく、
また、簡単に情報を共有するインターネットのような便利なツールもありませんでした。
故に、古セール自体がなかなか手に入るものではなかったように思います。
一番肝心な材料が満足な量を満たせない状況では、商品の供給にも支障が出ますし、
お客様にもご迷惑がかかると考えました。

そこで僕は、販売する為の商品は新品のセイルクロスで作り、
カバンとして使って頂いている内にお客様の手によって古セイルにしてもらおうと考えたのでした。

そうです!
まさしく今のJIBの原型であり、コンセプトの一つです。

そして、古セイルを使ったシリーズは、
ヨット部の学生達のメモリアルバッグの材料として持ち込んでもらったものを、
丁寧にバッグとしてリメイクする、といった方向に変えたのです。
見た目にも「世界に一つ」のオーラをたたえ、なんとも言えないクタクタ感、
ちょっとした汚れやシワも、魅力的に生まれ変わった古セイルのシリーズは、
「自分たちが乗ったヨットのセイル」であるからこそ、また愛着もひとしおと、
大変喜んで頂いたのを覚えています。

●Dragon Class Series

そして時が過ぎJIBは11月に33歳を迎え、来年は34歳になります。
数年前に手に入れた僕のドラゴンのセイルナンバーは「JPN-34」
(以前このブログにもRainbow Seekerとしてご紹介致しました)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また、来年2012年の干支は「辰」ということで、ドラゴン・イヤーと言えます。
ということで、「ドラゴン」「辰年」「34」などの符号が揃う2012年、
ドラゴンクラスの古セイルにこだわり、
様々なバッグを作ってみようと考えました。

このバッグは、何もかも徹底的に僕のこだわりを詰め込んで作ります。
また、製作に当たるスタッフは、もちろん僕と僕の艇のクルーだけで作ります。
これもこだわりです。我々のヨットに対する想いを、いっぱいに感じて頂けるように。

古セイルは材料もたくさんありませんし、
セイルをじっくり見て、どこを何に使うと一番良いものが出来るのかなど、
一つずつ細かく裁断していきますので、効率もとても悪いのです。
なので、少ししか作れませんが、楽しい物をたくさん作るつもりです。

どうか楽しみにしていて下さい!

※写真は参考商品で今現在は販売しておりません。年始より発売予定です。

※過去の関連記事はこちら↓

Rainbow Seeker JPN-34 NEWS #1

Rainbow Seeker JPN-34 NEWS #2

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Rainbow Seeker JPN-34 News #1

 

短い夏が終わりさっさと秋がやってきたと思ったら、
いつまでも蒸し暑い気候が続いていますね。
みなさんお元気でしょうか?
さて、今日はいよいよ僕の乗っているヨット・ドラゴンクラス
「Rainbow Seeker」の話しの続きです。

Rainbow Seeker
Rainbow Seeker

時間は少しさかのぼり今年の浅い春のはじめ。

さあ、また久しぶりのヨットライフ!と、
Rainbow Seekerに乗り始め練習開始。

久しぶりのヨットの感覚を味わいつつ、勘を取り戻しつつのセイリングは、
五感の全てを使い集中し、終わると心地よい疲労が得られます。

ドラゴンは3人一組のチームで帆走するのですが、
もちろん、この強者どもが集う西宮にはクルーの候補がたくさん集まっています。

・・・が、どうせチームを組むならJIBのスタッフだけで固めたら、どんなに素晴らしいでしょう。
そこで僕は乗り始めてすぐに、
「JIBチーム結成 → 育成 → (できれば)一勝」
が、今年の大きな目標になりました。

とはいえ、実は現在、JIBスタッフにはヨット経験者がほとんど居ない状況で、
主力メンバー2名を選抜したのですが、2名とも全くの素人。
前の記事にも書きましたが、ドラゴンという船は遊びの部分がほとんどないレース志向で、
故に知識と技術を要求されるため、そう簡単に乗りたがる人も居ないようなヨットです。
要するに、難しいんです。
それにいきなり全くの初心者にチャレンジさせようというのだから、大胆です!
でも、とにかくJIBスタッフだけでレースに出て勝つという事を目標にしたかったのです。
Rainbow Seekerズッコケチームの結成です。

そうして、僕たちは練習をスタートをきりました。

まずはそれぞれに役割を決めることから始まり、
初心者の二人には早速幾つかの重要な課題が課せられました。
すばやくロープワークができること、
ヨットの名称を覚えること、
キャットリグ(一枚帆)のディンギーを一人で乗れること、
そして動作が素早くあること、という内容でした。

彼らはそれを必死に(?!)覚え、また海に行っては実践し、
夏が来る前には何とか一人でヨットに乗れるようになっていました。

でも、ヨットというのはただ水の上を移動する乗り物ではないのです。
海でのさまざまな体験、
波や風という自然や地球といった大きな存在と今までとは全く違うアプローチで対峙することは、
さぞかし刺激的であるでしょう。
風の力を感じ、太陽のきらめきや波の揺れ、匂い、五感の全てが開いてゆくような体験です。
穏やかな湾内で練習していても、少しは「死」が近いところにあるということも、体験する事もあるでしょう。
僕にも覚えがありますから。
しかしそれらの味が病みつきになって、こうなっているわけですから(笑)
彼らが吸い込まれてゆくようにヨットと海の世界に夢中になっていく過程を
今まさに歩んでいるわけですね。
楽しくて楽しくてしようがないはずです。

さて、ドラゴンでは、私一人で操船と指導の両立がなかなか大変なので、
彼らのトレーナーとして、有能なクルーに参加してもらう事になりました。
日本チャレンジにも出場したことのあるT君で、これがなかなか爽やかで男前の好青年です。

Rainbow Seeker
Rainbow Seeker

余談ですが、僕はみなさんご存知の通り、
ヨットを始めその他マリンスポーツ、クライミング、バイク、音楽etcetc…
遊びの種目がとても多いです。
故に、さまざまなタイプの人々とコミュニケーションを持ち、リーダーシップを取り、
またお酒の文化や芸術も好きなので、その接点で集まってくる人々も居ます。
仕事の部分を含めるともっとそれは多種多様な人種たちや組織と接する機会が多いのですが、
ヨット界の人々だけは特別です。
年齢を重ねたいい大人たちが不思議な事にいつまでも毒されず、一様に爽やかです。
僕はそんな仲間たちと接する度に、心からホッとするのです。
(と言っても、今僕の周囲に居るヨットの仲間たちとは、最低でも同年代から年上の先輩方ばかりですが)
裏表のない単純な笑顔を見せるヨットマンは、まるで少年のようなくったくのなさです。
自然の厳しさや素晴らしさを体で体感したものたちが共有する連帯感なのでしょうか。

ドラゴンでの練習は実践タイプと決めていました。
いきなりレースに参加して、走り慣れようと考えました。
レースには3名で参加するルールなので、私とトレーナーそして新米1名という構成です。

最初のレースで僕はセイリングやヨットレースの勘を取り戻し、
2回目のレースからいよいよ新米ヨットマンもクルーとして参加することになりましたが、
あいにくのひどい悪天候。
新米クルーは、レースで敵と闘うのではなく、
すさまじい強風と揺れで恐怖と船酔いと闘う事で終始したのです。
しかし、そんな彼の事を笑えないんですよ。
よく頑張って、耐えていました。

ドラゴンのデッキには、ドラゴンくらいのサイズのヨットには通常装備されている落水防止の「ライフライン」というガードがありません。
強風の中オーバーヒール(必要以上に船体が傾くこと)し、バウ(船首)からドカーンと波につっこむ。
たちまちコクピット(操舵席)まで水が入り込む。その水をポンプで掻い出す。
この状況でデッキにしがみつくよう両手でふんばり、海に向かって嘔吐するのです。
(汚い話しですみません)
怖いのと苦しいの度が過ぎて、顔が笑うんです。

それでもその夜のDOG HOUSEでは、お客さんや仲間たちの前で
今日のヨットレースの事を何とも誇らしそうに嬉しそうに話ししていました。

あっと言う間に夏が来る頃には、2人とも真っ黒に日焼けし、
いっぱしのヨットマンに見えるほどになりました。
(内容はともかく!)

そうこうして、トレーナーを除く僕とスタッフ2名の、
JIBオリジナルメンバー3名ではセーリングではできるようになったけど、レースはまだまだ無理な状態です。
しかし、今年は11月のレースで、それなりの成績を挙げる事で
このズッコケチームのデビューイヤーを締めくくりたいと思っています。

我々のJIBチームが
一人前のチームになるため、勝てるチームになるため、
そんな思いを込めて、この秋からJIB製品の一部に、
我々の乗るヨットの※セイルナンバーをデザインとして取り入れました。
どうか我々に力を下さい!という思いをこめて。
そして僕たちはその責任に於いてプレッシャーをかけています。

目印しはステンシルで、

『JPN 34』

です。

みなさんどうか応援をよろしく!!
また、新西宮ヨットハーバーでJPN34を見かけたら(ヨットでもJIBグッズでも)
みんな声をかけて下さいね!

※セイルナンバー
ヨットの個体を識別する番号で所有者や管理全般を特定できる番号

JPN-34 シリーズ
JPN-34 シリーズ
JPN-34 シリーズ
JPN-34 シリーズ
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International Dragon The Royal Class

●Dragonとの出逢いと再会

60歳という年齢を機に、赤いちゃんちゃんこの替わりに気に入った赤いバイクを買い、
そしてもうひとつ、僕にとってはこの上なく意味のある、とても大事なものを手に入れる事が出来ました。
それが、『ドラゴン』というヨットです。

出逢いは僕がまだ10代の、ヨット経験が始まって間もなくの頃。
それはとんでもなく格好良く美しく優雅なオーラを放ち、
それまで私が知っていたヨットとはまるで違ったものでした。
余分なものは一切まとわず、トレーニングされた肉体のようにシャープでエレガントな美しい曲線美は、
速く走る為だけに生まれた機能美であり、説得力を持たせ、だからこそそのオーラは格別なものでした。
僕は運良く乗せてもらい、そのキレのある走りや、デッキと水面がギリギリに触れあう感じにシビれ、
乗ってみて一層さらに深く感動したのです。

●『Dragon』というヨットは

正式には『INTERNATIONAL DRAGON THE ROYAL CLASS』のヨットで、
今から約80年も前に誕生したヨットなのです。
『ロイヤル』と付くくらいですから、デンマーク王室の王子様などはじめ、
諸国の王室の方々がよく乗らているヨットであり、まさに由緒正しいヨットなんです。

僕は今まで色んなヨットに乗ってきましたが、ドラゴンは単に憧れだけのヨットでした。
何故ならこの種の艇は、帆走(セイルだけで走ること)することの機能以外なにもありません。
クルーザーにしてもいいくらい意外にも大きなサイズなのに、もちろんキャビンやゆったりしたコクピットも、楽しげな装備も一切何もありません。車で例えれば、クラシックのF1カーみたいなものです。
だからこそこの船に乗るなんて言うメンバーは、元オリンピック選手など、
一様にヨットの強者ぞろいなのです。

去年の11月JIBの30周年のパーティには、
ドラゴン級のレース活動をずっとされているヨットの諸先輩方が、たくさん出席してくださったのですが、
『君もドラゴンに参加しろ。船はみんなで捜すから』
と、僕に薦めてくれたのです!
この種の船は国内にはほとんどなく、乗る船を探すだけでも大変な事なんです。
JIB30周年という大きなイベントを機に、僕はヨットの先輩方に
ドラゴン界へウエルカムされたということです。
これは僕にとって、とても意味深く嬉しい事でした。

そして今年の春、ドラゴンを手に入れたのです!
それは偶然ではあるのですが、私の60歳の誕生日に合わせた、胸躍る出来事でした。

●命名『Rainbow Seeker』

さて、船名は『Rainbow Seeker』です。
直訳すれば「虹をどこまでも探しにいく探求者」といったところでしょうか。
このままの意味だけでも充分ですが、名前の由来は実は私の音楽活動にあります。
私のバンド(『Cat Rig』というバンドです)で演奏する曲の中で、
最も好きで最も演奏回数が多い曲の名前なんです。
ジョー・サンプルという大好きなピアニストの非常にお洒落な曲で、これは、ぴったりと思い命名したのです。

Rainbow Seeker
Rainbow Seeker

ドラゴンの事はこちらで詳しくご覧になれます
●International Dragon Association
http://www.intdragon.org

 

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四国クルージング-4

■太平洋!

別府港にようやくたどり着いた、それは、この旅の折り返し地点に到着したということです。今までは、穏やかな瀬戸内の中に抱かれて走ってきましたが、帰路は太平洋を経由し、四国の太平洋側を走るのです。「初めて」の事ばかりが続いたこの旅の、最大の初体験は、この太平洋との出逢いだったのです。

では具体的に太平洋、というと、例えば瀬戸内海と何が違うのでしょうか?

行く先に何も景色が無いという体験を、海の上でした事がおありですか?

日本近海はほとんど、特に瀬戸内海は当たり前ですが、常に両側に丘の景色が見えます。
右手には兵庫県から始まり岡山、広島、山口、左手には香川、愛媛と続くのです。
丘の景色が見える事は、我々阪神間に暮らす者にとっては特に、当たり前の景色すぎて改めて考える事などありませんよね。しかしこのことは、とても大きな安心感をもたらす環境だということが、このすぐ後、僕はその時の僕なりによく判る事になります。

その先ずっと後に、もっと大きな外洋に出た時のスケールとは違いますが、その時の僕にとっては、大きな感動と未知体験からくる最高の緊張でした。

若き日の Mr. JIB 四国クルージング
若き日の Mr. JIB 四国クルージング

さて、別府港を出港しまもなく佐賀関を越えると、豊後水道(九州と四国の間の航路)に入ります。ここを抜ければ、いよいよ太平洋が目の前に広がるのです。

 

左手には四国の佐多岬、右手には九州の佐賀関を越え、さあ、太平洋だ!

それは、全く違う波の大きさや海のスケールでした。

何せ、今までは平和な瀬戸内だったのですから。それまで前後左右にあった筈の丘の景色が、次第に変わってきました。目の前に広がる景色が遠く、ただただ、海の先に集約されてきたのです。太平洋の入り口まできたのです。

間違って向こう側に行ってしまったら、怖いな・・
歴史上で言う大航海時代(15~17世紀)大昔のマルコポーロやコロンブスなどの先人たちは、この先を行ったのです。
向こう側が何もわかってないのに?!
ものすごい勇気だ!
しかし何を求めて?
しかも、その無謀な旅に着いて行ったクルーも居るのだ。
これこそが、世界史だ!!

・・・・

僕は、ちょっとした興奮と恐怖の中で、アジアの隅の太平洋のはしっこで、先人たちとつながっていました。

・・・

波は豪快で大きく、未体験のセイリングです。慣れぬ内は「一体どないなるんやろ!」と、たじろぎましたが、それもつかの間。こんな大きな波でも乗り越えて行けるのだと、体と頭で理解出来る頃には、すっかり慣れていました。

■リアス式海岸

僕たちは最初の寄港地を、高知県の土佐清水港に決めていました。

土佐清水は四国の最南端、足摺岬を少し奥に戻った港です。僕たちは目的地へまっしぐら、日振島が横に見えてきました。日振島は小さな島で、この辺りはそのような小さな島が幾つもある海域です。

しばらく走った頃、快適なセーリングだったのですが、風が次第に強くなり、波も大きくなってきました。波の大きさは内海から太平洋へ出るのと併せて、どんどん大きくなってきました。そこで、このまま土佐清水まで行くのは難しいと判断し、僕たちは最寄の港に避難する事にしたのです。

チャート(海図)を見て、避難先を宇和島市の北灘湾へ一路。やっと風と波が避けれられる湾に入ったときは、もうすっかり日が暮れていました。

さあ、アンカー(錨)を降ろすぞ。
しかし、・・・ん・・・?

ロープが止まる海底になかなかアンカーが着かないのです。いつもならとっくに届いていても良いだろうの時間、手の中をするするとロープが海の中へ引き込まれてゆくのです。
岸はすぐそこに見えているというのに、何故?
・・・そんな疑問を抱えながら、アンカーが効く所までそろそろと奥へ進みました。もちろん、誰も知らないところだったので、慎重にそれ以上奥へ進まず、夜が明けるのを待ちました。

僕たちはNHKの気象情報を聞いたりゲームをしたりで一晩過ごし、翌朝、明るくなった海岸を奥へと進みました。みかんが海面いっぱい浮いていたのが印象的でした。

海岸線の入り組んだ地形・・・
なかなかアンカーが届かない深い底・・・
・・・そうか、ここはリアス式海岸や!
僕は中学校の地学の勉強を思い出し、なるほどと思いました。

九州と四国の継ぎ目の間、地球が長い年月をかけて大陸を引き裂いた跡をそのまま残すような、複雑な海岸線が続くのです。

さらに奥へ行くと、何とそこには小さな町がありました。
「岩松」ということがわかりました。
僕たちはそこでもう一晩泊まり、翌朝出港、土佐清水の寄航は止め一気に徳島県の日和佐港まで走る事に計画を変えたのです。思わぬ予定変更でしたが、偉大な自然の力の前に、私たちは常に謙虚であり慎重でなければなりません。

気象の事や地形の事、もっとちゃんと勉強をしておけば良かった・・・
予測が出来るようになっておけば、もう少しうまい段取りが出来たのに・・・
そんな思いをかみしめた寄港でした。

【教訓6】 海に出る者は、気象の勉強は絶対条件や

■電リク

岩松港を出航し足摺岬を回った頃、夜中の一時過ぎくらいの出来事。

僕たちは持ち込んだラジオをいじって、そこから拾いあげる電波を見つけて遊んでいました。すると、いつも僕が聞いてた電リク(電話リクエスト)が、聞こえてきたのです!

さて、『電リク』は今でももちろん幾つかの番組があるようですが、当時はAMラジオで毎晩2~3時間放送されており、非常にポピュラーな娯楽でした。今のようにメールやファックスなどはなく、リクエストは電話のみ。また、『○○さんから○○さんにメッセージ、・・・・』と、単にリクエストでなく公共の伝言板のような役割もあり、リクエスト曲と併せてメッセージを読み上げられてもらえたのです。それらにはそれぞれに意味があり、それを聞くのも楽しかったのです。

自分へのメッセージが電波に乗って曲と共に流れてくる、ちょっとロマンを感じる番組でした。受験生は皆、たいがい電リク愛聴者で「ながら勉強」という言葉が出来たほどでした。

さて。
「お!電リクや!」と、キャッチした電波を皆で聞いていると、何と僕の名前が出てきたではありませんか!
僕の父親から、僕へのメッセージでした。

「お父さんからメッセージです。もし聴いていたら家に電話をしなさい。
予備校も申し込んだぞ。」

というような内容でした。

今思えば、とんでもない浪人生、さぞかし心配をかけただろうと充分に理解出来るのですが、その時の僕の心境はと言えば、うわぁ〜〜!!いきなり現実に引き戻された!というような、少し気の重いハプニングでした。

し かし驚いたのは、リクエスト曲に僕の好きな曲を選んでくれた事です。当時好きだった洋楽か何かだったと思いますが、父親はちゃんと知っていたのですね。そ んな父親、母親を、自分が親になって、初めて有り難いと思う・・・これは、世の常とはいえ、ほんとうにその通り事なのです。

■潜水艦

西宮を出港してからもう何日も経過していました。

足摺岬を越えて室戸岬まで、地図で見たイメージよりもずっと遠く、時間もかかりました。

翌昼頃、その足摺岬と室戸岬のちょうど中間ぐらいのところです。
前方、かなり遠くににドラム缶のようなものがポコッと立っている(浮かんでいる)のが見えたのです。何だろう?と思いながら近ずくと、それは何と潜水艦の一部だったのです。

潜水艦!?

色々な出逢い・・・動物や土地やハプニングも含めて、潜水艦と海で出逢った事も、非日常な航海の印象深いエピソードです。

■旅の終わりに

よくよく見知った土地であったとしても、例えば、海側からそこを眺めることを想像してみて下さい。さらに、何日も旅をして帰ってきた懐かしい景色を、海側からアプローチすることを想像してみて下さい。
何とも不思議な、新鮮な感じがしてきませんか?
じわじわとゆっくり、しかし確実に近づいてくる懐かしい景色が、無事に帰ってこられた喜びをいっぱいに膨らませるのです。

でも、旅の終わりに待っていたものは、喜びだけではありませんでした。

・・・

室戸岬を回り、進路を再び瀬戸内方面、徳島県の日和佐へ。日和佐から四国の南を大きく周り大阪湾を目指します。

そして数日間かけ、目前には淡路島、右手には和歌山、紀伊水道を超え、友が島水道を玄関とする大阪湾の入り口まで僕たちは無事に帰ってきました。背中から受けていた西風は北風へと向きを変え、風上へきり上がりながら走ります。
色んな事を乗り越えた旅の終わり、やっと見慣れた景色が広がる。旅が終わる淋しさと安堵感が入り交じって、複雑な思いでいっぱいでした。いつもヨットを乗ってきたホームグラウンドの西宮の海は、旅が終わる時には安心感をいっぱいにたたえた小さな海に変わっていました。

こうして、瀬戸内海を西へ横切り、四国をちょうどぐるっと一周したような旅は、全行程で2〜3週間ほどで終わったのです。

そ れまで1年ヨットにどっぷり明け暮れた僕の、その時の最大級のヨット体験です。そしてこの旅のさまざまな体験は、僕の体に脈々としみこみ、その後の僕の人 生にももちろん深く関わる事になるのです。次々に開かれてゆく未知のものや新しい景色との出逢いは、常に夢が膨らむワクワクした気持ちを与えてくれ、と同 時に、大きな緊張や興奮も。また、それまで僕が体験していた自然の驚異、脅威の壁が、どんどん塗り替えられてゆく旅でした。

楽しいこと、嬉しいこと、怖いこと、悔しいこと、四国って大きいな。
また、小さいなあ、と。

しかし何と言っても、この旅の最大の恩恵は「充実感」なのです。

僕たち若者4人組だけでやってのけたんだ!という、誇らしさ、幾つかの困難を乗り越え、知恵を出し、ちゃんと無事に帰って来られたという大きな達成感なのです。

それは、その後の僕のヨット人生に、大きな勇気と自信を与えてくれる旅だったのです。

若き日の Mr. JIB 四国クルージング
若き日の Mr. JIB 四国クルージング

 

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四国クルージング-3

■スナメリと出逢う

それから船はさらに瀬戸内を西へ進みます。
波も風もない静かな瀬戸内海の夕暮れ。ぬめっと波のない海は独特の雰囲気をたたえていました。
あまりにも風が無く、僕たちは機走で(エンジンで)走りながら、オバケとか海坊主とかが、その辺に現れてくるんじゃないか、というような怖い話しを、おもしろ半分にしていた時でした。

僕たちの船からほんの数十メートル先に、海坊主みたいなものがポコッと現れたのです。
辺りは段々暗くなってきていたので、黒いシルエットが見えただけ。

謎の生命体の出現!?

それがあまりにもタイミング良かったので、とても驚いたのです。
僕たちは船ですぐ追いかけ、その正体をつかみました。
それは『 スナメリ 』という、瀬戸内海に生息する小さな鯨でした。
体長はイルカのように小振りで、背ビレがありません。
このクルージングの旅に出てから、初めて出逢う動物。
ノンビリとした瀬戸内の、早い春の海の断片です。

■冷たい春の海

若き日の Mr. JIB 四国クルージング
若き日の Mr. JIB 四国クルージング

左手に四国の景色が続き、来島海峡を越えさらに釣島を越えたあたりで、ペラ(エンジンのプロペラ)が回らなくなった。来島海峡は、鳴門海峡に次いで、日本で2番目にきつい潮を流れる海峡です。
後方を見ると、大きな海藻を引きずってるではありませんか!

 

早く取り除かなくては!

しかし、そんな海の真ん中で走行中で作業は無理だったので、次の寄港地、別府で作業という段取りになったのです。

僕は少し、嫌な予感がしていました。

伊予灘、豊後水道はとても風が良く、気持ち良く別府まで帆走できました。
そこまで途中で、同じ関西汽船(別府航路)に3回も抜かれました。
一日一便のフェリー船だから、まる三日という事になります。
そうして考えて頂くとおわかりのように、ヨットは、たいそうノンビリした乗り物なんです。
しかし、船の中のクルーにとってはこんなノンビリした時間とは逆に、時に激しいスポーツになる乗り物なのです。

さて、別府港。
海草取りの作業はジャンケンです。
嫌な予感は当たり、僕はジャンケンに負け、海に潜ってペラに絡んだ海藻を取り除く事になりました。
当時は今のようにウェットスーツなど無く、Gパンにトレーナーという格好で海に入りました。
それは、今まで未体験の海の冷たさと、感覚でした。「寒い」や「冷たい」を超えて「痛い」のです。ペラまでほんの1メートル、取り除く作業はほんの5分くらいの事でしたが、僕は一瞬でコチコチになりました。

【教訓4】 春(3月)のうみは一年中で一番冷たい。

僕はこの辛い任務を終え、事前に調べておいた温泉へいちもくさんに走りました。

さておき、海草を取り除くのにとても役に立ったものがあります。
それは『錆びたナイフ』です。
錆びたナイフは刃が適当にギザギザになって、のこぎりのようになってくれます。
それは、へーえ、という新鮮な発見でした。
役に立たないと決めつけない事で、このように答えが正反対になる事もあるのですね。

物事に偏見を持たず決めつけないという事は、とても大事な事なのです。

【教訓5】 錆びたナイフは良く切れる。(錆びたナイフも必要)

■別府観光港

ところで、僕たちは遂に別府まで走ってきてしまったワケです。
九州は、高校の修学旅行でも訪れたことがあったので、2度目の九州でした。
疲労感はあった筈だけれど、全く記憶にない。
ただ、未知の経験やワクワクした楽しい感じがずっと続いていたのです。
他のメンバーも同じだった事でしょう。

僕たちがかけこんだ温泉というのは、確か「ジャングル風呂」という名前で、いわゆるレジャー温泉でした。海に面した温泉で、ジャングル風呂、という名前が印象的で、未だによく覚えています。

冷え切った体を温めるべくかけこんだ温泉は、僕が潜る前に予めメンバーと下見をして見つけておいたのです。ドブンとつかった暖かなお湯が、天国のような心地だった事は、みなさんの想像の通りです。

若き日の Mr. JIB 四国クルージング - 別府にて
若き日の Mr. JIB 四国クルージング - 別府にて
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四国クルージング-2

■ヨットが傾く?

そうして、僕たちは無事に西宮港を出港したのです。

香川県の小豆島や高松は何度か来ていたので、海の上に居てもああいまこの辺かとわかりますが、そこから先は僕にとって未体験ゾーンです。緊張に似たワクワク感を感じていました。

クルージング初めての寄港地は丸亀港です。
丸亀港は誰も体験のない初めての港、しかも夜に到着です。
周囲の状況も見えずらい上に、水深や水中にあるものが何も判らない状況です。
ヨットにはフィンキール(ヨットの船底にある重要なパーツ)があるので、3mぐらいの深さは絶対必要なのです。慎重に入港し、紐の先に重りをつけ水の深さを測りながら少しずつ接岸して、停泊したのです。

次の朝、目が覚めると、寝ている自分の体が傾いてるじゃないですか。
慌てて飛び起きると、何と、ヨットが傾いて浮かんでいる状況でした。

どうなってるんや!!

調べてみると、なんと丸亀は2mも潮が引く。2mも潮が引く環境は珍しい例に入ります。
潮が引いて、ヨットが海底にあたって持ち上げられていたのです。

僕たちはしごく納得し、その後はずっと潮が満ちるのを何時間か待ちました。
午後になってようやく潮が満ち、元のプカプカ浮かんだ状態に戻り、丸亀港を後にしました。

後に海図と水路書誌を合わせた「水路(図)誌」の存在を知り、よくよく勉強してから寄港するようになりました。それぞれの港の侵入の仕方や海底の様子などを細かく記しているものです。

【教訓2】 初めて入る港は事前に調べておく。

■春一番

『春一番』って、素敵な言葉だと思いませんか?
寒い冬を越え、待ちに待った春の到来を告げる、爽やかな暖かい風・・・
「あぁ、春が来るんやな」
そんなイメージのする優しいニュアンスの言葉
・・・と、僕は、この時まで思っていました。

丸亀を超え数時間経ったと思います。
急に海面に白波が立ち、風がどんどん強くなってきました。
そこへいきなり突風が吹いて来て、船はぐっと傾きました。
突風は吹き止まず、まさしく春の嵐です。
キャプテンの冷静な判断で、このまま夜走るのは危険なので、最寄の湾で過ごそうということになりました。
強い南寄りの風をしのぐ為に、香川県の詫間湾へ逃げ込み、一夜をそこでやり過ごしました。
そして、これが本当の『春一番』だと知りました。

【教訓3】 春一番は、恐ろしい。

若き日の Mr. JIB 四国クルージング
若き日の Mr. JIB 四国クルージング
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四国クルージング-1

■クルージングに行こう!

ヨットと出会い、すっかりヨットの虜になってしまった僕に、再び受験の季節が巡ってきました。
もちろん、結果は惨敗、またのチャレンジを余儀なくされたのです。
と、言っても、僕は決してブルーな浪人生ではありませんでした。
何故なら、結果はどうあれ僕にも皆と等しく春がきた。
それは、胸躍るワクワクの、ヨットざんまいの始まりのゴングだったのですから。
19歳、ヨットと出逢ってからまる一年たった春です。

そして、僕は当時の仲間や先輩クルーと、クルーだけの四国一週クルージングを計画したのです。
練習航海です。
毎日のように一年もヨットに乗っていると、ヨットの事(艤装や操船)や、海のこと、自然のことなどについては、すっかり僕の体の一部のようになっていました。
しかし、僕にとってはまだ行った事がない距離、未知の海が待つ体験です。
ワクワクせずにはいられません!

早速、ヨットのオーナーに話すと、気持ちよく気をつけて行って来いと返事を頂き、
こうして僕たちは、その春、四国クルージングを実行したのです。

■メンバー紹介!

では、ここでメンバーを紹介しておきましょう。

・フジオカさん=スキッパー(船長)
彼は神戸海洋少年団(後述)出身で、僕より2、3歳年上。
年齢も上だが、ヨットや海の経験と知識は豊富で、頼りになる先輩。
彼が居なかったらもちろんこの計画もあり得ない事でした。

・ キムラ君
ヨットでは僕の方がちょっと先輩、僕の友人。
よく船酔いをしていた彼。しかもものすごく長い間。
笑いながら「吐くわー」と言ってた。

・コタロー
クルージングの1週間ほど前からヨットに乗り始めたばかりの、フジオカさんの友人。
しかし、彼にはものすごい特技があったのだ。

・そして、僕
いつも特攻隊役。危険なこと、寒いこと、面倒なこと・・・
何かにつけ一番に飛び込むのは僕の仕事でした。

以上、この4人だ。
メンバーの詳しいエピソードはまた後で書くとして、とにかく話しをすすめよう。

若き日の Mr. JIB 四国クルージング - クルーのみんなと
若き日の Mr. JIB 四国クルージング - クルーのみんなと

■綿密、でなかった計画!?

 

クルージングに欠かせない、重要な搬入品と言えば、何でしょう?
燃料?
それは、ヨットの場合は、「風」が燃料なんですね。
ほとんどが帆走(帆だけで走る)が前提のヨットは、燃料は必要最低限のみ積んでおけば良いのです。
重要な搬入品とは、食糧です。
何せ学生4人組、予算も限られていたので、かなり綿密に計画を立てました。

『何事も、工夫することで何とかなる』
この事は、これから始まるヨットの体験と共に、たくさんの教訓を生み、後々の僕の人生にとても役に立つ事となるのです。

水は寄港したところでその都度調達する事に。
主食の米は、それぞれの家から持ち寄って調達する事にしました。
問題は「オカズ」になるものです。
そこで、西宮の中央卸売市場へゆき、ある、安い缶詰を見つけてケース買いしました。
献立を考え、色々な料理にアレンジして、一つの缶詰を消化しようという考えでした。
そして、出航したその夜に、その一つ目を空けました。

・・・何やこれ?!

ゴボウ天をタテにぎっしり並べたような感じで、いかにもまずそうな物体でした。
一口食べてみたところ、見た目を裏切らず、大変まずかった。
あぁ、これを毎日食べなアカンのか・・どうしよう・・・
と思い、大変憂うつになりました。

しかし、それでもそれを食べるしかなかったんですね。
メンバーで2缶ずつくらいを毎日毎日。
ある日は炒めて、ある日はオデンにしたりして、工夫に工夫を重ね、帰る時には全部食べきっていました。
しかし、今でも忘れられないくらい、まずい缶詰でした。

【教訓1】 ケース買いする時は、必ず試食すること。

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受験生ブルース

ヨットと出逢った春から、あっという間にその年の夏が過ぎました。
僕は、ほとんど毎日ヨットの練習に明け暮れ、自分の腕もだんだん上がってきたように思えました。
そうして、重い北西の季節風が吹く冬の頃になっても、
僕は相変わらずヨット、ヨットの毎日でした。

北西の季節風はぐわぁーっと、とにかくパワーのある風です。
海上は全体的に波が大きくなり、白波が立つ状態です。
夏の走りとは別格の、とにかく豪快な走りに変わります。
バウ(船頭)から波がドーンとデッキを洗う。波はあちこちにぶつかり、自分の体にも当たる。
時には直接波を頭からかぶることもある。
当時の貧相なカッパごとしでは、あっという間に体の中まで濡れる。
そうやってずぶ濡れになっても練習が楽しく、
アドレナリンが出る、というのか、変に興奮する感じで楽しいのです。

冷たい風で手がかじかむと、その手を海に浸けるのです。
12月いっぱいぐらいまでなら海水があたたく感じ、また、気持ち良いのです。
冬の海は厳しい自然と向き合う事を避けられないのですが、
都会の生活だけでは体験する事の出来ない、不思議な発見もありました。

そうや、僕は受験生やった!
しまった!!

・・・と思っても、もう遅い。
もう一回浪人やなあと思い、ちょっと暗くなりました。

親には大変申し訳ないと思いました。
巷では、なんやら僕にぴったしな曲が流れていました。
高石友也の受験生ブルースです。

大事な青春無駄にして
紙切れ一枚に身をたくす
まるで河原の枯れススキ
こんな受験生に誰がした

若き日の Mr. JIB - 受験生時代
若き日の Mr. JIB - 受験生時代

歌詞の一部です。こんな歌を聞いてると、何が良いのかわからなくなってきました。

 

僕の生まれた1949年はいわゆる”ベビーラッシュ”の年。
そう、『団塊の世代』というやつです。
今思えばどうしようもなく暗い歌ですが、当時の風潮にはぴったりと合っていました。

本当に大切な事は何か?
役に立たない公式や年号を覚える事か?
少なくとも今の僕にとっては、天気図やロープワークを覚える事の方が重要じゃないのか?

そんな想いの中、僕のヨット生活は続きました。
ヨットに乗ると受験の事は完全に忘れてしまっていました。
しかし、周りの先輩はヨットの中で勉強させるのでした。
僕が受験生ということを思い出させてくれたのです。
親切?
しかしそれは焼け石に水。
もちろん、ヨットの中で勉強なんて、全く出来ませんでしたけど(笑)。

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初クルージング

■初クルージング

衝撃的なヨットとの出会いの春からわずか数週間後、初めての一泊クルージングです。

当時クルージングで乗った船「ナオタン」
当時クルージングで乗った船「ナオタン」

ナオタン(ヨットの船名)に先輩クルーと乗り込み、いざ目的地は、淡路島の洲本へ。
クルーとして、期待と不安に胸を膨らませながら、出港。
西宮港から出発して6~7時間かかったと思います。
その日の天候は曇り、辺りは霧でほとんど何も見えない状況でしたが、それでもコンパスで進路だけ見て、針先を頼りに進むのです。

 

「これで本当にちゃんと着くんか?」

そう、信じられますか?
コンパスの指し示す進路だけで、身近な島だけじゃなく、世界中何処へでも行けるのです。
このシンプルな地球のシステムが、何も知らない僕にとってはとても新鮮で、衝撃で、と同時に最大に不安でした。

目的地が近づく頃の時間、前方に見たことのある松林が!!
小学生の頃、家族旅行で行った時に、関西汽船から見たものと同じ景色が目に飛び込んできました。

ちゃんと着いた・・・・・!!

感激でした。
それは、感激と同時に、何とも言えない安堵感が溢れ、「海に出て、必ず無事に丘(陸)に帰ってくる」という、海の世界での大鉄則の意味を、ほんの少し体感した事でした。

クルージングから帰ってからも、毎日沖に出て、練習に明け暮れてました。
ヨットの艤装(帆走の為の準備・セッティング)、ロープワーク、ロープの投げ方や、セイルのトリム(調整)、そして大切な仕事であるヨットの掃除や整備など・・・覚えることはたくさんありました。
マリーナで動き回る他のスタッフの、無駄のない機敏な動きが、何ともかっこよく、僕の憧れになっていたのです。

そうして、夏も盛りになる頃には、もう自分もいっぱしのクルーのタマゴになっていました。
スキッパー(船長)に指示される前に手際良く段取りし、何でも出来るようになっていました。

若き日の Mr. JIB
若き日の Mr. JIB

 

練習はいつも西宮から4~5時間で往復出来る範囲。
タックやジャイブ(帆走の基本の動作)など、沖に出てはそういった実践の練習です。

また、淡路島、小豆島、家島・・・
瀬戸内海を臨む西宮からは、とても手頃な目的地がたくさんありました。
クルーザーのオーナーが寛容な人物で、僕たちがそういった身近なクルージングを持ちかけると、実行することをいつも心よく許してくれたのです。
【to be continue・・・】

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ヨットとの出会い

■18歳・春(1967年)

若き日の Mr. JIB - ヨットと出合った頃
若き日の Mr. JIB - ヨットと出合った頃

僕が初めてヨットに出会ったのは、18歳の春でした。

大学受験が終わり浪人が決定した時です。
今日から一年間は頑張ろうと思う反面、今日から思いっきり自由やな、とも思っていました。
毎日、自転車でヨットハーバーへ行き、飽きることなくヨットを眺めていました。

あの中、いったいどうなってんねんやろ?、と。

僕の好奇心の針が、今よりもっと敏感に振れていた頃です。

■ヨット生活の始まり

ある日のこと。

「おおい」 「乗るか?」
と言う声が聞こえました。
何のためらいもなく僕は「はい」と答え、その声の元へ走って行きました。声をかけてくれたのは、ハーバーでアルバイトをしている青年でした。彼は僕をディンギー(小さなヨット)に乗せてくれると言うのです。そして僕は彼と二人、沖へと出たのです。

音もなく海をなめらかに滑るように進み、舵と帆で好きなように走る。
私はいっぺんにヨットの魅力にはまってしまい、毎日ハーバーへ手伝いに行くようになりました。
もちろんギャラなんてものはありません。無償の奉仕です。
が、ボートを押したりヨットを洗ったり、他の人から見ればいかにも地味な雑用そのものが、
充分に「遊び」であり、それら一つ一つがとても楽しかったのです。

■外洋ヨットのクルーになる!

初めてディンギー体験をしてから数日後、外洋ヨットに乗るチャンスが来ました。
外洋ヨットとは「キャビン付きのヨット」というのが、ざっくりとした定義です。
当時外洋ヨットなるものは、ほんの一部の方々だけの持ち物だったため、今の時代以上に人々にとってはより遠い存在でした。
僕の居たヨットハーバーにも、わずか数艇あるのみだったのです。

そんな時代、まもなく僕は生まれて初めて外洋ヨットと出逢うことになります。

話しは少しそれる。

その当時、堀江健一氏のマーメイド号が、単独太平洋横断に成功したニュースが日本に溢れた少し後だった。
言わずと知れた堀江氏は、我が町、西宮出身である。
日本はそのニュースに湧き、その偉業は、石原裕次郎が主演で「太平洋ひとりぼっち」という映画化されるに至った。
僕の居たヨットハーバーに映画のロケがきたりもした。
そんなことで、僕の周りはもちろん、日本中が海に関わることがちょっとしたブームになっていました。
小さな西宮の海から世界に向けて、夢が広がるイメージを誰もが持った時代でした。

さて、マーメイドは18フィート(約6m)の小さな船。
僕が声をかけてもらったオーナーの「ナオタン」という船は、24.5フィート(約7.5m)、定員が5~6人ほどの、当時としては大きい方のクルーザーでした。
新米クルーの僕と先輩クルーは、そのヨットクラブから紹介され、そのオーナーの船のクルーとして乗せてもらえる事となったのです。

初めて見るキャビン(ヨットの船内)には、ベッドや小さなキッチンが装備されており、見たこともない世界が広がっていました。僕は、大変な驚きと感激に包まれました。

へぇー、こんな中で充分生活しながら走れるやん!
お茶も飲めるしゴハンも炊ける。
むき出しだけれどちゃんとトイレだってある!
幼い頃の、隠れ家や基地ごっこをしてワクワクした思い出がふわっとよみがえる。

さらに、小さくてもそれは充分に豪華と呼べる装備で、こんな乗り物に乗っている、という自分が、何ともかっこよく思えたのです。これがまた、非常に気分が良かった。
その頃僕は、完全に役に立つクルーとは言えるものではなかったので、何となく「乗せてもらっている」感があったにせよ、とにかくそれは僕にとって最高の優越感でした。

ヨットとは、夢の広がるものやなあと思いました。

その後、その船のオーナーが「この船に乗るか?」と声をかけてくれました。
もちろん答えは即答、イエス!に決まっていました。

そんなわけで、この日から僕は、外洋ヨットのクルーになったのです。
・・・・

もう受験のことは完全に忘れていました。
興味があるのは、ヨットの事だけでした。
ヨットのこと、ロープワークや帆走のこと、自然と向き合うための知識などを、
夢中で覚えました。
覚えることは山のようにあったけれど、受験勉強のは違って、
それはとても楽しい勉強でした。
【to be continue・・・】

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