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僕の音ルーツ~中学時代

■レコードプレーヤー

さて、みなさんは「蓄音機」という名前はご存知ですよね。
いわゆる、レコードプレーヤーです。
今日はまずそのお話から。

僕のレコードプレーヤーの歴史は、何と言っても78回転のレコードプレーヤーに始まります。
プレーヤー台とモノラルスピーカーが一体になったコンポです。今在るレコードプレーヤーは33回転、それに比べると倍以上のスピード、今見たとしたら目が回るような、ちょっと滑稽な速さです。レコードはずっしりと重く、またレコード針は鉄製で、すぐに劣化してしまうのが特徴でした。僕は家の中ではそのレコード針を交換する係になっており、頻繁に交換していた思い出があります。当時はどの家庭にもこのようなレコードプレーヤーが在ったのかどうかは判りませんが、音楽好きな両親の家です、きっと何より優先してその器械を購入したのだと思います。

それから、45回転のプレーヤーが登場します。
『音質重視、ハイファイ・プレーヤー』なんて呼ばれていました。合わせて、以前からあったレコードよりもやや軽量になったドーナツ盤レコードが生まれ、レコード針も鉄の針からサファイヤ針、ダイヤモンド針へと進化していき、交換頻度もぐっと減ったのです。音楽媒体も、今に比べればゆっくり進化していったように思います。

まあ、そういったレコードプレーヤーから流れてくる音楽を、大事に大事に聴いていた頃の話しです。溝をスキップするブツッ、ブツッ・・・というあの独特な音とともに、何ともワクワクするような、楽しいような、そんな音が聞こえてきた時代です。

■Nat King Cole

中学2年のとき、ナットキングコールに出会います。それは・・・また僕の衝撃の出会いの一つでした。同じ中学の友人から薦められた、N.K.コールの「ランブリン・ローズ」がきっかけでした。
うわ~!
何やこれは!

Nat King Cole
Nat King Cole

やわらかな声や歌い方も素敵だったけれど、当時の僕にはそんな細かい事はわからない。メロディーやアレンジも全てが新鮮、僕は夢中になって、毎日のようにランブリン・ローズを聴いていました。

 

それから後も、海外の流行歌(ポップス)にどんどん夢中になっていきました。日本全体、誰もが口ずさむような流行だったと思います。いわゆる『60’オールデイズ』と言えば、お判りでしょうか。「Vacation」 「One Boy」 etcetc…、改めて解説するのは専門家の方々に任せるとして、未だにその栄華(?)は、伝説のようですよね。僕たちは、少年から青春期のまっただなかに、リアルタイムでそういった、明るく楽しい音楽と共に過ごしました。今思えば、洋楽が今よりももっと身近だった、幸せな時代だったのかもしれませんね。

■トランジスタ・ラジオ

そんな時代、トランジスタ・ラジオもまた、流行ものの一つでした。僕は両親にねだって、すぐにラジオを買ってもらいました。両手に収まるくらいのサイズで、首からぶら下げるようなストラップが付いていました。真ん中に楕円形のスピーカーが、何とも印象的なデザインだったと覚えています。

クリフ・リチャードの「サマー・ホリデー」、ジョニー・ソマーズの「ワン・ボーイ」など、いい感じで流れてくる曲を首にぶらさげて、山歩きをするのが気に入っていました。

ある雨の日、ポンチョを着て甲山周辺を歩いていると、カスケーズの「悲しき雨音」が流れてくるではありませんか。ポンチョ姿の僕+いい感じのBGM=それはまるで映画のワンシーンのようにぴったりとはまり、僕はとても良い気分になって、雨の中をニコニコと歩いたのを覚えています。

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僕の音ルーツ~小学校時代

■家庭にジャズ

子供の頃から、家庭は音楽(ジャズ)に溢れていました。
何せ両親、特に母親が音楽好きだったので。

そもそも母親というのが、宝塚歌劇のかなりの信者(?)でした。
というのも、元々本人が歌劇団に入りたかったのを、母の両親たちに止められた事がよほど悔しかったのでしょう。その反動でしょうか、宝塚への憧れの熱い想いのホコサキは、自分の家庭や生活へ向かったのですね。おかげで、まだ小さかった僕は、宝塚歌劇やその他の舞台などにさんざん連れ回されることになりました。

母はよく父と踊っていました。
レコードをかけ、タタミの上でジルバなどの社交ダンスらしきものを練習していました。それはとても楽しげで、そんな二人の姿はもちろん小さな僕にとって幸せな景色の一つではあったけれど、そんな事は当時の僕には判りませんでした。ただただ、おもしろいなぁ、楽しそうだなぁ、と思って、二人が夜な夜な練習する姿を眺めていたものです。

また、母親は時には小さな僕の手をとり、無理矢理ダンスの相手をさせられたりもしました。
ネアカな性格と音楽への憧れを生活一杯に満たしていた母親と、それに影響されて一緒に楽しんでいた父親・・・今思うに、幼い頃に体験した、僕の音楽の原風景なんですね、これが。

■50年代のニッポンのジャズというと

さて、ジャズというのは、いわゆる「洋楽」のことで、当時は洋楽の事を総称してジャズと呼んでいました。
当時、海外ジャズがリアルタイムで流行歌として流れていた時代、日本では「江利チエミ」が大流行していました。

江利チエミそれからずいぶん後、僕が大人になってから、彼女の歌はダイナ・ワシントンとそっくりで、彼女の歌の中にダイナを見ることが出来てなるほどと納得した次第なんですが、彼女はいわゆる海外ジャズ(ポップス)を日本語と混ぜて、日本の歌として唄うスタイルの歌手でした。
「ビビデ・バビデ・ブー」「パパはマンボがお好き」など、思わず体が動き出しそうな楽しいリズム、メロディー、それまでの日本には無い曲調がとても新鮮でした。

日本の歌も、今と違って楽しかったな。
今のように、良くも悪くも選択肢の数も少ない分、音楽飽和していなかったせいでもあるけれど、音楽がもっと生き生きとしていた時代だったように思います。
「シャボン玉ホリデー」「紅白歌合戦」などの音楽番組はどれも華やかで楽しく、いわゆる歌謡の世界が開花した時代なのでしょう。

という事で、当然ながら僕は音楽好きな子供であり、自分なりに音楽を楽しむことをしていました。またそうして、自然と音楽の趣向の基礎が、じんわりと形成されてゆくことになるのです。

しかし、なのに!
学校の音楽の通信簿はいつも2でした。
学校で教わる音楽は、僕がもう既に知っていた音楽とはまるで違う、無味で退屈なものでした。

・・・ぜんぜん楽しない・・・。

何故なら、それは僕にとって音楽ではなく「音学」だったからです。
音楽と音学の違いについてはまた別の機会に書くことにしましょう。

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