お酒のことあれこれ

■お酒の味わい

僕は今までお酒を飲んで気持ち良く酔ったことが、ない。
それは、少しばかりお酒を飲めるようになった今も変わらないことです。
お酒は僕の体にあまり合っていないらしく、沢山飲むと頭がズキズキして、酔うより先に眠くなるぐらいです。気持ち良く酔い、それを楽しんでいる(ように見える)人を見ると、うらやましく思っていました。アウトドアに於いては体を温める重要なツールになりますが、それとは全く意味が違いますよね。
そんなわけで、僕はずいぶん長い間、お酒を積極的に飲むことはなかったし、またそんな機会もありませんでした。

そんな僕が30代になって、ある事でお酒に対するヨソヨソしさが一気に変わった事があったのです。
明石(兵庫県)のとある割烹で、僕は取れたてのヒラメだの鯛だののお造りを目の前に、いつもなら日本茶というところ、居合わせた連れの者に日本酒を勧められたというわけなんです。
いや、今ならさすがに僕でも刺身にお茶はあまりに無粋だと苦笑してしまいますが。ともかくそこで僕は、友人に勧められるままに、日本酒をほんの少し飲んでみたのです。

何と、あれほど何の魅力もなかった日本酒が、ものすごく美味しいものに感じられたのだ。
さらに、刺身を一口。これがまた旨かったのだ!お酒が食べ物の味わいを引き立て、口に含んだ食べ物の旨みがまたお酒を引き立て、お互い引き立て合い素晴らしい相乗効果なのです。当たり前の事なんですが、いわゆる、お酒と食べ物の飲み合わせの素晴らしさを、その時初めて体験したというわけなんです。

その体験以後、『食と酒』は絶対大事だと思うようになりました。またさらに、地方へ行った時は、必ずその地の食べ物と地酒をその地の空気と一緒に頂くようになりました。「空気」も大事なんです。

■酔っぱらうひと

僕は酔っぱらいが嫌いです。
特に女性は最悪です。どんなに魅力的であろうとも。

酔っ払って騒ぐ人、泣く人、怒る人、静かになる人、いろんなタイプがあります。
僕はいつも思います。これってその人の本音だし、性格なんやろなぁと。

酔っ払って何でもかんでも話してくる人がいます。
いいこと、悪いこと、ここぞとばかりに。
そのような場合、周囲の人間もたいがい酔っぱらった人が多いので、たいがい皆が軽く聞き流しているようにすれば良いものなんですね。
ところが僕は酔っぱらう事がないので、ああ、これが本音やなと思い、きちんとまじめに聞いてやります。彼らは一様に、酔いがさめた後で「そんな事、知らん」「覚えてない」などと言うのですが、僕はすっかり聞いています。
酔わないと本音が出せないのは、ちょっと淋しい事です。

■どちらを選びますか?

お酒の酔い方には、二つあります。
一つは、アルコールに酔う。
おおかたの人はこの酔い方だと思われる。
もう一つは、気分(雰囲気)に酔うです。
これなら、人に迷惑をかけずにすむし、いい思い出も作れます。
僕はいつも若い人に、アルコールに酔ってはいけないと言うのですが、この事を知らないのは、残念ながら若い人たちだけじゃないんですね。
Barなどの公共の場所では、お酒は飲んでも呑まれたら絶対ダメです。お酒を飲んでいい気分で過ごしきるという事は、大人がお酒を頂く時の最低限のマナーで、自分自身に置くべきルールなのです。

■お酒の飲み方 ストレートのススメ

僕がお酒を飲むときは、ロングカクテル以外ほとんどストレートです。
この方が味が分かるし、何と言ってもアルコールに酔わずにすみます。
ストレートなのに?
矛盾していると思いますか?
理由はシンプル。
水やソーダなど何かで割ると飲みやすくなってしまうでしょう。
なので、一口当たりの摂取量がぐっと増え、一気に酔いが回るんですね。
ストレートなら一気に飲む事が出来ない分、ゆっくり香りや味を楽しめます。
お気に入りの一杯を、少しずつ飲む・・・
そんな飲み方が、僕は気に入っています。

■酒とラベル

お酒とお酒のラベルを意識して見る事はありますか?
僕はラベルを含むそのボトルの正面を「酒の顔」と呼んでいて、知らないお酒を買う時のインスピレーションを、ラベルから感じ取ります。お酒のウンチクは僕にはどうでも良いのです。自分で感じることが大切なので、あまり重要ではないのです。
というわけで、ラベルから、ボトル全体から「この酒は旨そうや」というオーラのようなものを感じ、買って帰ることもしばしばです。その判断はたいていの場合当たっている事が多いんですよ。実際の中味とラベルのバランスは「コレはばっちり!」というものもあれば、「嘘つくな!」などという事もあって、とても楽しいものなんです。

そして、びんとラベルから、物語のようなものが感じられる時が、最高に気分よく酔えてるな、と思います。だから、お酒に合わせたグラスも、僕にとっては大事なことです。
・・・ということで、僕の大好きなガラスのお話しは、また次回に。

美味しいお酒は綺麗なグラスで!
美味しいお酒は綺麗なグラスで!
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憧れのVANジャケット

■”Cape Cod Spirit”

さて、”VANジャケット”というブランドを知っていますか?

僕が、ヨットに乗り始めた1967年、VANジャケットは”Cape Cod Spirit”というテーマでキャンペーンを行い、New England Styleのファッションを売り出したのです。

ちなみに、ケープ・コッド(コッド岬)は、アメリカ東海岸、N.Y近郊で、アメリカ開拓の出発点でもあるマサチューセッツ州にあります。夏場はホエール・ウォッチングの観光客で賑わうサマー・リゾート地です。当時大統領であったケネディの別荘もありました。ニューイングランド(地方)はそんなケープ・コッドを含み、大西洋を渡ってイギリスからヨーロッパの文化が融合した街であり、非常に洗練されたイメージを創り出していました。僕はこの街がとても好きです。(その後アメリカズカップで渡米し僕自身の目で確かめていたので、よく知っています)

ニューイングランドスタイルとは、そういった流れの中で生まれたネーミングなのでしょう。
Tシャツにバミューダパンツ、上品なカジュアルウェアといったところです。

話しを元に戻します。

その、VANジャケットのポスターには、外洋ヨットが!!

記憶の中のVANポスター
記憶の中のVANポスター

・・・かっこ良かったです。
突き抜けるような青空と、真っ白のセイルのコントラストが画面のほとんどを占め、ヨットのバウ(先端位地)に、そのファッションをまとったセイラーが座っているポスターでした。白いセイルの真ん中にフロートするようにランプのデザインのVANのcape cod spiritのロゴがあしらわれ、とにかく抜群に洗練されていました。

 

しかし、何と言っても僕が感激した事は、そのセイラーの姿が、いかにも僕の日常の姿と全く同じであった事です。

・・・これって、毎日僕がしてることと同じやん!

そのような洗練された遊びをしている、という自分が、特に誇らしく思えたのです。だって、まさしく同じ事を、既に日常でしていたのですから。自分では全く手の届かない世界、考えられない世界へ、ヨットを通じて僕はあっという間に同じ世界への入り口に招待された気分でした。ポスターのモデルは、まさしく僕自身でした。

そんなこともあり、マリンファッションには、かなり敏感でした。時代が流れた今から当時のファッションを見れば、まぁどうかな~というところですが。

しかし、そういった欧米やマリンの世界からの感性は、確実に僕・Mr.JIBの目に、心に、貯金されていった時代でした。良いものは、時代や世代を超えても、ずっと良いのです。

VAN


●VAN JACKET INC. web page

http://www.van.co.jp

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僕の音ルーツ~中学時代

■レコードプレーヤー

さて、みなさんは「蓄音機」という名前はご存知ですよね。
いわゆる、レコードプレーヤーです。
今日はまずそのお話から。

僕のレコードプレーヤーの歴史は、何と言っても78回転のレコードプレーヤーに始まります。
プレーヤー台とモノラルスピーカーが一体になったコンポです。今在るレコードプレーヤーは33回転、それに比べると倍以上のスピード、今見たとしたら目が回るような、ちょっと滑稽な速さです。レコードはずっしりと重く、またレコード針は鉄製で、すぐに劣化してしまうのが特徴でした。僕は家の中ではそのレコード針を交換する係になっており、頻繁に交換していた思い出があります。当時はどの家庭にもこのようなレコードプレーヤーが在ったのかどうかは判りませんが、音楽好きな両親の家です、きっと何より優先してその器械を購入したのだと思います。

それから、45回転のプレーヤーが登場します。
『音質重視、ハイファイ・プレーヤー』なんて呼ばれていました。合わせて、以前からあったレコードよりもやや軽量になったドーナツ盤レコードが生まれ、レコード針も鉄の針からサファイヤ針、ダイヤモンド針へと進化していき、交換頻度もぐっと減ったのです。音楽媒体も、今に比べればゆっくり進化していったように思います。

まあ、そういったレコードプレーヤーから流れてくる音楽を、大事に大事に聴いていた頃の話しです。溝をスキップするブツッ、ブツッ・・・というあの独特な音とともに、何ともワクワクするような、楽しいような、そんな音が聞こえてきた時代です。

■Nat King Cole

中学2年のとき、ナットキングコールに出会います。それは・・・また僕の衝撃の出会いの一つでした。同じ中学の友人から薦められた、N.K.コールの「ランブリン・ローズ」がきっかけでした。
うわ~!
何やこれは!

Nat King Cole
Nat King Cole

やわらかな声や歌い方も素敵だったけれど、当時の僕にはそんな細かい事はわからない。メロディーやアレンジも全てが新鮮、僕は夢中になって、毎日のようにランブリン・ローズを聴いていました。

 

それから後も、海外の流行歌(ポップス)にどんどん夢中になっていきました。日本全体、誰もが口ずさむような流行だったと思います。いわゆる『60’オールデイズ』と言えば、お判りでしょうか。「Vacation」 「One Boy」 etcetc…、改めて解説するのは専門家の方々に任せるとして、未だにその栄華(?)は、伝説のようですよね。僕たちは、少年から青春期のまっただなかに、リアルタイムでそういった、明るく楽しい音楽と共に過ごしました。今思えば、洋楽が今よりももっと身近だった、幸せな時代だったのかもしれませんね。

■トランジスタ・ラジオ

そんな時代、トランジスタ・ラジオもまた、流行ものの一つでした。僕は両親にねだって、すぐにラジオを買ってもらいました。両手に収まるくらいのサイズで、首からぶら下げるようなストラップが付いていました。真ん中に楕円形のスピーカーが、何とも印象的なデザインだったと覚えています。

クリフ・リチャードの「サマー・ホリデー」、ジョニー・ソマーズの「ワン・ボーイ」など、いい感じで流れてくる曲を首にぶらさげて、山歩きをするのが気に入っていました。

ある雨の日、ポンチョを着て甲山周辺を歩いていると、カスケーズの「悲しき雨音」が流れてくるではありませんか。ポンチョ姿の僕+いい感じのBGM=それはまるで映画のワンシーンのようにぴったりとはまり、僕はとても良い気分になって、雨の中をニコニコと歩いたのを覚えています。

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僕の音ルーツ~小学校時代

■家庭にジャズ

子供の頃から、家庭は音楽(ジャズ)に溢れていました。
何せ両親、特に母親が音楽好きだったので。

そもそも母親というのが、宝塚歌劇のかなりの信者(?)でした。
というのも、元々本人が歌劇団に入りたかったのを、母の両親たちに止められた事がよほど悔しかったのでしょう。その反動でしょうか、宝塚への憧れの熱い想いのホコサキは、自分の家庭や生活へ向かったのですね。おかげで、まだ小さかった僕は、宝塚歌劇やその他の舞台などにさんざん連れ回されることになりました。

母はよく父と踊っていました。
レコードをかけ、タタミの上でジルバなどの社交ダンスらしきものを練習していました。それはとても楽しげで、そんな二人の姿はもちろん小さな僕にとって幸せな景色の一つではあったけれど、そんな事は当時の僕には判りませんでした。ただただ、おもしろいなぁ、楽しそうだなぁ、と思って、二人が夜な夜な練習する姿を眺めていたものです。

また、母親は時には小さな僕の手をとり、無理矢理ダンスの相手をさせられたりもしました。
ネアカな性格と音楽への憧れを生活一杯に満たしていた母親と、それに影響されて一緒に楽しんでいた父親・・・今思うに、幼い頃に体験した、僕の音楽の原風景なんですね、これが。

■50年代のニッポンのジャズというと

さて、ジャズというのは、いわゆる「洋楽」のことで、当時は洋楽の事を総称してジャズと呼んでいました。
当時、海外ジャズがリアルタイムで流行歌として流れていた時代、日本では「江利チエミ」が大流行していました。

江利チエミそれからずいぶん後、僕が大人になってから、彼女の歌はダイナ・ワシントンとそっくりで、彼女の歌の中にダイナを見ることが出来てなるほどと納得した次第なんですが、彼女はいわゆる海外ジャズ(ポップス)を日本語と混ぜて、日本の歌として唄うスタイルの歌手でした。
「ビビデ・バビデ・ブー」「パパはマンボがお好き」など、思わず体が動き出しそうな楽しいリズム、メロディー、それまでの日本には無い曲調がとても新鮮でした。

日本の歌も、今と違って楽しかったな。
今のように、良くも悪くも選択肢の数も少ない分、音楽飽和していなかったせいでもあるけれど、音楽がもっと生き生きとしていた時代だったように思います。
「シャボン玉ホリデー」「紅白歌合戦」などの音楽番組はどれも華やかで楽しく、いわゆる歌謡の世界が開花した時代なのでしょう。

という事で、当然ながら僕は音楽好きな子供であり、自分なりに音楽を楽しむことをしていました。またそうして、自然と音楽の趣向の基礎が、じんわりと形成されてゆくことになるのです。

しかし、なのに!
学校の音楽の通信簿はいつも2でした。
学校で教わる音楽は、僕がもう既に知っていた音楽とはまるで違う、無味で退屈なものでした。

・・・ぜんぜん楽しない・・・。

何故なら、それは僕にとって音楽ではなく「音学」だったからです。
音楽と音学の違いについてはまた別の機会に書くことにしましょう。

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創作の秋、2006

暑い暑い夏が終わり、本格的に秋が深まってゆく季節がやってきました。
今は何をしても気持ちの良い季節。
特にバイクは最高やな!

さて、今年のJIBの夏も思いっきり忙しく、余りにも忙しく、
製作に追われゆっくり考えることも出来ませんでした。

しかし秋になってほんの少し新しいものを考えるための時間が出来てきました。

今まで経験してきたさまざまな遊びの中で、
本当に必要なモノや改良すべき事などに対して工夫を重ね、
何度も何度も試作をし、新しいJIBが生まれる、実りの季節なのです。

そんな季節、
JIB本店・甲子園のアトリエでは、夜な夜なスタッフが集まり、
ああだこうだと夜な夜な創作活動。
僕の机やミシンの周りは生地や糸くずや試作でぐちゃぐちゃになり、
もう大変な散らかりよう。

しかし、そうしてやっと出来上がったものを、
今まではすぐにお見せすることが出来ませんでした。

しかし、今年は芦屋に直営店、
また、JIBのすぐそばにMOTOJIBショップが出来ましたので、
出来たてホヤホヤの新商品やリニューアル商品を出来たての内に、
このお店で見て頂くことが出来るようになりました。

何故、そんなに早く店頭に並べること出来るでしょうか。
それは、芦屋のスタッフやMOTOJIBのスタッフも、
あーだこーだの製作現場に参加するからです。

またそのことによって、身近でお客様の意見なども直接聞くことが出来るのです。
また色んな意見を聞かせてもらえると嬉しいです。

さあ、今日は何作ろうか?
もっといっぱい楽しむぞ!

JIB Nuts
JIB Nuts

 

p.s.
今年の秋の一番目の作品は、スピンナッツです。
収穫の秋・・・JIBの木にもいっぱい実が成った!
というイメージの、
夢と遊び心がたっぷり詰まったジブの実です。

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初クルージング

■初クルージング

衝撃的なヨットとの出会いの春からわずか数週間後、初めての一泊クルージングです。

当時クルージングで乗った船「ナオタン」
当時クルージングで乗った船「ナオタン」

ナオタン(ヨットの船名)に先輩クルーと乗り込み、いざ目的地は、淡路島の洲本へ。
クルーとして、期待と不安に胸を膨らませながら、出港。
西宮港から出発して6~7時間かかったと思います。
その日の天候は曇り、辺りは霧でほとんど何も見えない状況でしたが、それでもコンパスで進路だけ見て、針先を頼りに進むのです。

 

「これで本当にちゃんと着くんか?」

そう、信じられますか?
コンパスの指し示す進路だけで、身近な島だけじゃなく、世界中何処へでも行けるのです。
このシンプルな地球のシステムが、何も知らない僕にとってはとても新鮮で、衝撃で、と同時に最大に不安でした。

目的地が近づく頃の時間、前方に見たことのある松林が!!
小学生の頃、家族旅行で行った時に、関西汽船から見たものと同じ景色が目に飛び込んできました。

ちゃんと着いた・・・・・!!

感激でした。
それは、感激と同時に、何とも言えない安堵感が溢れ、「海に出て、必ず無事に丘(陸)に帰ってくる」という、海の世界での大鉄則の意味を、ほんの少し体感した事でした。

クルージングから帰ってからも、毎日沖に出て、練習に明け暮れてました。
ヨットの艤装(帆走の為の準備・セッティング)、ロープワーク、ロープの投げ方や、セイルのトリム(調整)、そして大切な仕事であるヨットの掃除や整備など・・・覚えることはたくさんありました。
マリーナで動き回る他のスタッフの、無駄のない機敏な動きが、何ともかっこよく、僕の憧れになっていたのです。

そうして、夏も盛りになる頃には、もう自分もいっぱしのクルーのタマゴになっていました。
スキッパー(船長)に指示される前に手際良く段取りし、何でも出来るようになっていました。

若き日の Mr. JIB
若き日の Mr. JIB

 

練習はいつも西宮から4~5時間で往復出来る範囲。
タックやジャイブ(帆走の基本の動作)など、沖に出てはそういった実践の練習です。

また、淡路島、小豆島、家島・・・
瀬戸内海を臨む西宮からは、とても手頃な目的地がたくさんありました。
クルーザーのオーナーが寛容な人物で、僕たちがそういった身近なクルージングを持ちかけると、実行することをいつも心よく許してくれたのです。
【to be continue・・・】

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ヨットとの出会い

■18歳・春(1967年)

若き日の Mr. JIB - ヨットと出合った頃
若き日の Mr. JIB - ヨットと出合った頃

僕が初めてヨットに出会ったのは、18歳の春でした。

大学受験が終わり浪人が決定した時です。
今日から一年間は頑張ろうと思う反面、今日から思いっきり自由やな、とも思っていました。
毎日、自転車でヨットハーバーへ行き、飽きることなくヨットを眺めていました。

あの中、いったいどうなってんねんやろ?、と。

僕の好奇心の針が、今よりもっと敏感に振れていた頃です。

■ヨット生活の始まり

ある日のこと。

「おおい」 「乗るか?」
と言う声が聞こえました。
何のためらいもなく僕は「はい」と答え、その声の元へ走って行きました。声をかけてくれたのは、ハーバーでアルバイトをしている青年でした。彼は僕をディンギー(小さなヨット)に乗せてくれると言うのです。そして僕は彼と二人、沖へと出たのです。

音もなく海をなめらかに滑るように進み、舵と帆で好きなように走る。
私はいっぺんにヨットの魅力にはまってしまい、毎日ハーバーへ手伝いに行くようになりました。
もちろんギャラなんてものはありません。無償の奉仕です。
が、ボートを押したりヨットを洗ったり、他の人から見ればいかにも地味な雑用そのものが、
充分に「遊び」であり、それら一つ一つがとても楽しかったのです。

■外洋ヨットのクルーになる!

初めてディンギー体験をしてから数日後、外洋ヨットに乗るチャンスが来ました。
外洋ヨットとは「キャビン付きのヨット」というのが、ざっくりとした定義です。
当時外洋ヨットなるものは、ほんの一部の方々だけの持ち物だったため、今の時代以上に人々にとってはより遠い存在でした。
僕の居たヨットハーバーにも、わずか数艇あるのみだったのです。

そんな時代、まもなく僕は生まれて初めて外洋ヨットと出逢うことになります。

話しは少しそれる。

その当時、堀江健一氏のマーメイド号が、単独太平洋横断に成功したニュースが日本に溢れた少し後だった。
言わずと知れた堀江氏は、我が町、西宮出身である。
日本はそのニュースに湧き、その偉業は、石原裕次郎が主演で「太平洋ひとりぼっち」という映画化されるに至った。
僕の居たヨットハーバーに映画のロケがきたりもした。
そんなことで、僕の周りはもちろん、日本中が海に関わることがちょっとしたブームになっていました。
小さな西宮の海から世界に向けて、夢が広がるイメージを誰もが持った時代でした。

さて、マーメイドは18フィート(約6m)の小さな船。
僕が声をかけてもらったオーナーの「ナオタン」という船は、24.5フィート(約7.5m)、定員が5~6人ほどの、当時としては大きい方のクルーザーでした。
新米クルーの僕と先輩クルーは、そのヨットクラブから紹介され、そのオーナーの船のクルーとして乗せてもらえる事となったのです。

初めて見るキャビン(ヨットの船内)には、ベッドや小さなキッチンが装備されており、見たこともない世界が広がっていました。僕は、大変な驚きと感激に包まれました。

へぇー、こんな中で充分生活しながら走れるやん!
お茶も飲めるしゴハンも炊ける。
むき出しだけれどちゃんとトイレだってある!
幼い頃の、隠れ家や基地ごっこをしてワクワクした思い出がふわっとよみがえる。

さらに、小さくてもそれは充分に豪華と呼べる装備で、こんな乗り物に乗っている、という自分が、何ともかっこよく思えたのです。これがまた、非常に気分が良かった。
その頃僕は、完全に役に立つクルーとは言えるものではなかったので、何となく「乗せてもらっている」感があったにせよ、とにかくそれは僕にとって最高の優越感でした。

ヨットとは、夢の広がるものやなあと思いました。

その後、その船のオーナーが「この船に乗るか?」と声をかけてくれました。
もちろん答えは即答、イエス!に決まっていました。

そんなわけで、この日から僕は、外洋ヨットのクルーになったのです。
・・・・

もう受験のことは完全に忘れていました。
興味があるのは、ヨットの事だけでした。
ヨットのこと、ロープワークや帆走のこと、自然と向き合うための知識などを、
夢中で覚えました。
覚えることは山のようにあったけれど、受験勉強のは違って、
それはとても楽しい勉強でした。
【to be continue・・・】

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Mr.JIBlog Debut!

全てのJIBファンのみなさんと、若者たちへ、
わたし、Mr.JIBからメッセージです。